奈良県の北東部、標高300〜500mの大和高原地区で、古老たちをはじめとする人々が、地域の文化や伝統を掘り起こし、記録し発信することで郷土の発展のために活動している。「大和高原文化の会」(浦久保昌宣会長/35会員)だ。
国中(大和平野)に対し東山中と呼ばれてきたこの地区は、奈良県で最も早く人が住み着いたところで、縄文遺跡や古墳が残り、奈良時代には奈良と伊勢を結ぶ幹線道路「都祁山道」が開かれ、中世の山城跡も多く残るなど、奈良の歴史を語る上で重要な位置を占める。
市町村合併により奈良市、天理市、宇陀市、桜井市、山添村など5つの行政区に分割されるまでは、強い連携・連帯の下、盛んな交流があり、独特の文化が育まれ伝統が受け継がれていた。それらの貴重な歴史財産を調査・復元・実践し、後世に伝え残していこうと、平成18年(2006年)6月、有志らによって立ち上げられたのが同会だ。
旧東山中などから集う会員は、30代〜87歳。会の魅力に引き込まれ、奈良市や広陵町から参加する会員もいる。拠点は廃校となった山添村の旧豊央小学校校舎。月例会で情報交換や歴史の学習を続けるうち、校舎1棟を民俗資料館として開館することとなった。
伝統食品の凍豆腐やみそ、こんにゃく、蕎麦作り(栽培から完成品まで)や、養蚕の実体験と絹の利用、方言や地名、風俗・習慣、祭り・伝統芸能、民俗の調査など、活動は、フィールドワークを伴って多彩さを増し、平行して資料館の展示物は12教室にも及ぶ充実振りだ。
中でも、琵琶湖からの寒風を利用した特産「小倉山凍豆腐」の復元では、材料の大豆を持ち込み、製品を運び出した京終駅までの17㌖の索道ルートを探し出し、大和高原立体地形図を制作、索道模型を置いた。そして、経験者の指導の下、資料館に集めた道具で凍豆腐作りを実施、以後毎年続けている。
養蚕活動は、蚕の飼育とえさとなる桑の葉の栽培も行い、頭数を徐々に増やして現在は7千卵を孵化させている。畿央大学と連携し、糸つむぎや染色、機織り、絹織物の作品制作などを協力してもらうほか、近隣小学校へ「出前授業」も行っている。ちなみに、繭は、薬師寺花会式の供花の括り紐にも使われている。
数々のイベントと共に、平成26年には、植村勝彌初代会長の記録を基に『大和高原 歴史ウォーク』を出版、大和高原の歴史・民俗の案内書とした。
7月の例会では、繭生産状況、大豆・ソバ栽培報告に続き、夏の社会教育研究全国集会分科会の現地受け入れ段取りと、第7回ゆかりの地(斎王群行の道)探訪旅行などについての話し合いが持たれた。
植村氏に次いで会のまとめ役となった浦久保さんは、60歳から、同高原で130年続く伝統芸能である狂言を習い、「いろは会」に属して、事あるごとに舞台に立つ。能と仕舞も30年になるという。始めた動機については、「5〜6歳の頃、父の背中で観た『三本柱』の愉快な顛末が頭の片隅に残ってたんでしょうな。田植えをほっといてでも狂言の稽古には出ますわぁ」