鬼を先祖に持つ人が下北山村前鬼にいる。その地は、約1300年前に修験道の祖、役行者によって開かれた『大峯奥駈道』の75靡(行場)のうち29番目。吉野と熊野の縦走路のほぼ中間にある。ここで宿坊『小仲坊』を守り続けてきたのが、61代目五鬼助義之さんだ。
「五鬼助」とは、役行者に仕えた鬼の夫婦「前鬼」と「後鬼」の5人の子どもの名の一つ。ほかに「五鬼継」「五鬼熊」「五鬼上」「五鬼童」があり、それぞれ「森本坊」「行者坊」「中ノ坊」「不動坊」という宿坊を営み、修験者の道案内、道の整備、食料の供給などに携わってきた。
しかし、明治5年の修験道廃止令以降、江戸時代まで全国に17万人もいたという修験者は激減。他の鬼の家系も昭和にかけて断絶や転居によりこの地を去り、「五鬼助」だけが残った。
義之さんは、1943年にここで生まれた。小中学時代は通学のために、上北山村小橡の伯母夫婦の下で過ごし、高校・大学は京都へ。父、義憲さん(60代目)が52歳の若さで亡くなったのは、義之さんが大学生の時だった。「長男だからいずれ継ぐ、と思っていましたが、この時は独り身だった叔父の義价さんが宿坊を守りました。優しい人で、行者さんや村の人、登山者さんからも愛されていました。ここが途絶えなかったのは、叔父の存在が大きいです」
1984年に義价さんが亡くなり、林業をしていた弟の義元さんが繋いで、1997年から義之さんが61代目として、全面的に宿坊を継いだ。当時、夫婦共に会社勤めをしていたため、平日は勤務し、週末に宿坊へ通う生活になった。「4時に起き、6時に大阪を出て、10時頃に到着します。大変は大変でしたが、多くの人と出会い、様々な話を聞けることが本当に面白い。また、都会にはない自然がいっぱいで、親しんだ山があって、今は前鬼に来ることがぜいたくだと感じます」
料理は到着してから妻の三津子さんが一人で作り上げる。「30人ぐらいまでなら私一人でも大丈夫なんですが、40人、50人になったときはいつも手伝ってくれる友人がいます。不思議とそういうご縁がつながっている気がします」。自然のものをたくさん使い、心を込めて作られる料理はおいしいと評判だ。「家内が二つ返事で宿坊の運営を手伝ってくれたおかげで、やっていけています。感謝です」
水は沢水を引き、石垣の端に小さな畑を作り、夜は発電機で電気を起こす。築約500年から600年ほど経つという母屋は、補修が重ねられ、真っ黒になった柱と比較的新しい建具とが混ざり合い、今も活き続けている。「1300年続いているなんてまさか、と思っていましたが、叔父や父、弟、皆が”橋渡し“してきてこの場所があると感じています。私たちも一つの橋になり、繋がっていくでしょう」