濃淡の青が美しい藍染。古くは万葉集にも登場する藍だが、盛んになったのは江戸時代と言われる。この室生・笠間地区でも数軒あったが今は井上さんたった1軒のみ。約140年続く伝統的な「笠間藍染」を受け継ぐ4代目が、井上加代さんだ。
「藍は私の子どものような存在です。元気に発酵しているといい色が出ますが、イライラしたり愚痴を言ったりするとまったく染まらない。私の言うことを理解しているんでしょうかね」。
天然の藍で染める「笠間藍染」は、藍の葉を乾燥させ、積み上げて発酵させた藍玉(スクモ)に、石灰や小麦粉、水などを藍がめで混ぜて自然発酵させ、染めていく。
一つのかめで染めるのではなく、いくつものかめをくぐらせて独特の色を出していく。弱ったかめも薄い色を出すときに活躍するのだが、最後はまったく染まらなくなって命を終える。ゆえにかめの様子を常にチェックして手を入れる。深さ約1?の藍がめが床下にいくつも並んでいて、菌が死なないように夏場は毎日、冬場は2日に1回必ず撹拌する。温度や湿度にも気を使い、冬は床下に毎日もみ殻と炭を入れて保温する。ゆえに一日たりとも休みがない。
工房は明治初期に建てられた家の一室。あちこち傷んでいるのだが、菌が住みついているこの部屋に手を入れることはできず、補修しながら今も使っている。冬場の寒さは容赦なく、何度も洗う井戸水も凍りつくほどだが、菌のために暖房は入れられず自然に身を置くしか術がない。
「まさか自分が藍染をするとは思っても
みなかった」と笑う加代さん。加代さん
が藍染に関わったのは15年前のことだ。加代さんは井上家に嫁いだお嫁さんで、義父の富夫さんは「笠間藍染」伝統工芸士として知られていたが、夫で長男の二能さんは会社勤めをしていて、まだ継ぐのは当分先と考えていた。加代さん自身も生まれつき股関節が悪く、家で和裁の仕事をしていた。
だが、毎日藍染に取り組む義父の姿を見て、思いや情熱に触れるうちに「今誰かが伝承しておかなければ代々の菌が途絶えてしまう」と思い始め、とりあえず自分が引き継いでゆくゆくは夫に伝えようと決意した。次の日から義父について一から学んでいった。
「ノートを取るな。目で見て覚えろ」が義父の口ぐせ。経験を重ねるうちにそれがわかった。発酵具合や菌の具合、染まり方などは常に変化する。丹念に様子を観察することで覚えていくしかない。
ところが2年後、義父は病に倒れて亡くなってしまう。そんなときに限って、かき混ぜても藍が元気にならない。「あー、これで菌が全部死んでしまったら私が伝統工芸をつぶしてしまう」。あわてて藍の本場、徳島まで車を飛ばし、教えを請いに行った。死なせてしまったらどうしようと気が気でなかった。
失敗は数限りない。そのたびに悩み、試したり、聞いたりして乗り越えてきた。6年前に、『笠間藍染』が奈良県伝統工芸品に認定。今は義父とは違うデザインに挑戦したり、女性ならではのスカーフやストールといった商品も増やし、好評を得ているが、今も「毎日が挑戦」と話す。
染の柄となる版木は、代々使ってきた伊勢型紙。米ぬかと米粉を混ぜたのりを一枚一枚丁寧に塗って、型をうつす。使い続けて型紙が老朽化しているのも悩みの種だ。だが、挑戦したいのは、大切に残してきた明治初期の型紙。同じ模様が一面に広がっているものなど、和モダンな柄が加代さんのお気に入りだ。
「まだまだお義父さんには近づけません。でも化学繊維には出せない天然の藍染めの風合いや、一つとして同じものがない特徴を、もっと多くの方に知っていただきたいです。今は夫も手伝ってくれますので、二人三脚でこれからも笠間藍染を守っていきます」