”深みのあるやわらかな音色“と音楽家が評価し、世界中を驚かせたバイオリンがある。なんと、このバイオリンの弦は約1万本のオオジョロウグモの”クモの糸“で作られている。奏者は、クモの糸を研究する大𥔎茂芳さんだ。
この快挙は約40年前、大𥔎さんが企業の研究員として粘着紙の研究をしていたころ、粘着の視点から視野を広げクモの巣を調べたことから始まる。当時、クモの研究は分類学が多く、クモの糸の研究は世界的にほとんど行われていなかった。研究となるとクモの採集や糸取りのため、フィールドワークも必要となる。「興味を持つ人がいなかったのだろう。誰も研究していないことと、自宅でもできる研究というのが趣味にちょうどよかった」。大𥔎さんはクモの糸を”趣味“としての研究対象とした。
家族旅行は高知、鹿児島や沖縄など南国へクモ探し。「旅行といっても、私がゆっくり車を運転し、妻が道端の木々に張っているクモの巣を見つけるという具合。夢中になり過ぎて岩から滑り落ちたり、我が子をけがさせたりと悪夢の思い出も多いです」。クモの生態を理解するうちに、クモから糸を取り出すことの難しさを痛感。「クモも人と同じ。イライラしたり厳しくしたりするとヘソを曲げる。優しくし過ぎてもなめられる。クモと心を通わせるように…」。失恋し落ち込んでいた学生には、目的のクモの糸が取れなかったという逸話もあるそうだ。
クモは用途に応じて7種の糸を出す。巣を作る『横糸』、横糸を張るための『足場糸』、獲物を巻き付ける時の『捕獲糸』など。中でもクモが天井などからすーっと降りてくるときや、危機に遭遇して逃げる場合などに命綱の役割として使う『牽引糸』に着目し、物理化学的研究を行った。糸の強さ他、『2の安全則』(科学雑誌ネイチャー掲載)や信頼性の原点などを学び取ることができた。「ベールに覆われたクモの秘密を少しでも知ることができたときには、恋人に出会うがごとくの感動です」と大粼さん。
2006年、TV番組からの依頼を機に『クモの糸にぶら下がる』など、気の遠くなるような挑戦で成功を経てきた。ある休日に、車の中で聞いたロシア民謡のバイオリン曲に感動し、「クモの糸で弦が作れたら面白いな」とひらめき、新たな試みを開始した。長い糸を集めるための研究を進めると同時に、バイオリンの構造や弾き方を学ぶためにレッスンにも通った。苦労して長いクモの糸を何万本と採取してもすぐに切れるなど、しばらくは失意のどん底を味わった。
2年かけてようやく出来上がった弦は、世界最高峰の名器『ストラディバリウス』の音色と周波数解析で比べても遜色なく、音楽家からも芸術的評価を得られた。
さらに、思わぬ発見もあった。バイオリンにセットし、糸の束を捩りながら加圧する過程で、通常円柱状の糸束が多角形の糸束に変化し、繊維と繊維の隙間がなくなり、強い糸束となることがわかった。この研究成果は現在、手術用の糸や繊維など様々な分野で応用が期待され、バイオリンの音色と共に世界中の企業・研究者や音楽家に注目されている。
「本職はコラーゲンの研究で、クモは趣味。趣味は結果を誰に求められることもなく期日もない。苦労もあるけれど純粋に自分の好奇心を追究できる」。4億年前から生き、多くの謎に包まれたクモ。クモに捧げる大𥔎さんの青春はまだまだ続く。