創業は大正10年(1921)。4代、足かけ100年続く畳屋がある。大和三山(耳成山)の麓にあるふくもと畳店(3代目・福本和生代表)だ。同店では7年前、決して明るくはない業界の先行きにもかかわらず、和生さんの二男の亮さんが家業を継いだ。
住まいと店とが離れていたため、成人するまで畳屋の仕事をさほど見たこともなく、継ぐつもりもなかった亮さん。建設業界を目指して大学に進んだが、アルバイト的に父親の仕事を手伝ううち、納品先で心のこもった感謝の言葉に再三触れた。「この仕事、やりがいあるなぁ」と思ったという。一念発起して父親の技術を学び、学科と実技の試験で畳製作技能士の資格を取った。
昭和30〜40年代まで、日本の家屋はほとんどが和風建築。待っていれば注文が来た。ところが、リビングやダイニングなど、フローリングを取り入れた洋風建築が増え始めると一転、特に阪神淡路大震災後は、和風建築が激減。畳の需要は一気に減った。奈良県内に200軒あった畳屋も今では50軒を切りそうだという。その上、低価格の中国産い草が出回り、畳替えの安売り広告が氾濫、国産い草の生産農家も大きな痛手を受けている。
そんな苦境だが、4代目は「畳って、すごいんですよ。まず断熱効果、そして消臭・抗菌効果。その上、香りによる癒やし効果。”和室で勉強すると集中力が高まり、成績が上がる“ということも実証されてます」と、熱弁をふるう。この業界で生きていける道を考えたとき、国産畳の美点と価値を皆に再認識してもらうことが一番だと気づいた。畳表や畳べりを使った小物を手に取ってもらう、あるいはそれらを自作するワークショップなどで体感してもらうことを企画。
そこでは、国産い草と、中国産のものとの違いも話す。両者の違いは、まず断面の形状。国産は丸く、中がハニカム構造(ミツバチの巣状)で耐久性も勝るが、中国産は平べったいので、先に挙げた効能が劣る上にすり減りやすく、素肌に触れるものだけに着色や残留農薬も気になるという。
講演を聞いた人や、小物を買ってくれた人から、畳替えの注文が来たときは「報われた」の思いでモチベーションが上がる。奈良の伝統産業の畳をもっと魅力的に……。そんな思いから生まれたのが、オリジナル畳べりの『和鹿奈=WAKANA』。2年前のことだ。奈良の神鹿と正倉院文様を織り込んだ。畳に仕立てたものは、同市内の看板ホテルのスイートルームに使われ、奈良ムードの盛り上げにも一役買っている。「海外からの旅行客に、本物の畳で日本情緒を感じ、安らいでほしいんです」
また、その畳べりをコインケースやストラップなど、奈良限定手作り和小物に仕立てた。手ごろな奈良土産として観光地で好評を博している。
畳の納品時には、家具の移動から空拭きまで全て父親と2人でサービス。企業努力の一つだ。高齢の人からの注文が多いだけに、「やあ、ありがたい。助かったよ」と喜んでもらえると辛苦も報われる。
実は、父の和生さんも継ぐ気はなかったが、2代目の病死により25歳でサラリーマンから畳屋に。自分の代で終わりかと心細くなっていたとき亮さんが戻り、親子でやる仕事の楽しさ、新しいことに挑む息子に頼もしさを覚えた。来年にかけて仕事場を改装、展示ルームやワークショップルームも備えて、伝統畳の発信により力を入れる予定だ。
2年前に結婚した妻・Yさんの「結婚して初めて、畳はスグレモノなのだと知りました」という言葉に照れ、1歳半になる長男に「この子は5代目に」と、早くも親バカ振りを見せる4代目だった。