奈良市内から車で20分。帯解寺の東に位置する山中に、全国各地、海外からもゲストが訪れる宿がある。2人の女性が営み、自然と共にシンプルで丁寧な暮らしを楽しむ体験型宿泊施設『とようけのもり』だ。「不便だけど、私たちは豊かです」と話すのは女将の野田知江さん。
野田さんは奈良市生まれ。都会に憧れ、学生時代は何でも西洋のモノを取り入れたいと思っていた。夢は宿泊業を営むこと。旅行でアメリカへ行ったとき、出会った他国の若者たちが自国の文化をすらすらと話す姿に衝撃を受ける。「海外のお客様を視野に入れるなら、日本のことをもっと知らなければ」と京都の老舗旅館で働き、日本文化とおもてなしの心を学んだ。その後、英語習得のために留学し、帰国後は大阪のホテルで日々忙しく働き運営を学んだ。
そろそろ自分の宿をと考えていた頃、知人の紹介で訪ねたのが、この山中だった。この地では国際的なアーティスト・小田まゆみさんが発起人となり『とようけのもりプロジェクト』が始動していた。同プロジェクトは小田さんがハワイで開いている、自然農による農業体験を通して、平和で調和のある生き方について学ぶ場を日本でも始めようというもの。小田さんと交流の深い田中舘万奈さんが東京から移住し、2015年から荒れた土地を整備し暮らしていた。「自然に囲まれた気持ちのいい場所。でもまさかここで宿泊業をするとは思っていませんでした」と野田さん。
何かに引かれるかのように、野田さんは通い始めた。整備のため山に入れば、謎の沼に下半身がはまったこともあったが、自然の中での何もかもがどこか心地よかった。「土地の人と話をしたり、その暮らしを体験したりすることは旅の楽しみの1つ。ワイルドだけど丁寧で美しい暮らしは魅力になる」と、2016年夏『とようけのもりプロジェクト』のメンバーに加わり体験型の宿づくりを始めた。
コンセプトは“心地いいコミュニケーション“。HPやSNSで仲間を募り、廃屋リノベーション、地形に合ったファームガーデン作り、水脈整備など、ここを実践の場としたワークショップを企画。「壁は吉野の左官屋さんから漆喰の塗り方を学び、参加者とみんなで塗って完成させました」。ここにはトップダウンはなく、それぞれが得意なことを進んでやり、苦手なことは補い合う。お互いに尊重し合いながら一緒にものづくりのプロセスを楽しんでいる。「まだまだ未完成な部分もありますが、気持ちよくお客様を迎えることができるようになりました」
体験はコミュニティーキッチン(昼食)をメインとする。『とようけのもり』を十分に楽しんでもらうため、チェックインは10時から。ゲストも共に農作業などをした後、収穫したオーガニック野菜を中心とした食事作りを始める。薪を割り、竈に火を付け、食べ始めるまでに1時間以上をかける。「みんなでお話ししながら、下ごしらえも楽しい時間です。子どもの頃、料理をする母の横で今日あった出来事を話したように。そんな温かなコミュニティーを作りたい」と野田さん。
食べ物は大地が育み、たくさんの人々の労働によって食卓に並ぶ。食べることが自らの力となり、病気から守ってくれる。「何でも手に入る街の暮らしの中では忘れがちですが、ここでは自然の恵みや労働への感謝を肌で感じることができます。ここでの経験を機に、食材選びや食べ方などが変わってきた親子のゲストもいます」。恵み豊かなキッチンからは心からの”いただきます“が今日も生まれている。