吉野山蔵王堂から馬の背(吉野山の形状から付いた呼び名)を進み、勝手神社の二股を右手の急坂へ。息を切らせて上り、喜蔵院、櫻本坊を過ぎたところに石臼挽き八ヶ岳産蕎麦を吉野の名水で打つ大矢貴司さんの「矢的庵」がある。
更に坂を上ったところで生まれた大矢さん、幼稚園から高校まで吉野町内の学校に通い、卒業後大阪の建設関係の会社に就職。住み込みで2年働きつつも、自分の本当にやりたい仕事なのか自問自答の日々が続いた。退職して親元に帰り、川魚料理屋の準備で古民家を自ら改装中の先輩を訪ねた。「こんな店をやってみたい」という思いがむくむくと頭をもたげた。
しかし自分が売れるものは何だろう?好きなものは麺類。「蕎麦だ!」。吉野山は観光地なのに蕎麦の専門店がない。外に出たから気づいた吉野の水のおいしさもあった。その水で打つ蕎麦なら…。と、蕎麦屋をやろうと決意。
だが、蕎麦のことは何も知らない。まずは、おいしいと言われる蕎麦を食べ歩いた。軽バンに寝袋を積み、三重、愛知、岐阜、新潟と北上し、北海道も一周した。そして行き着いたのが信州戸隠の仁王門屋。食べたその日に再訪するが主人には会ってもらえず、翌日やっと思いを伝えると「皿洗いからだぞ」と弟子入りを許される。以来5年半、蕎麦打ちから商売のハウツーまで仕込んでもらった。「実に懐の深い師匠です」
修業を終え吉野に戻り、5年間、飲食店で蕎麦に携わった後、くだんの先輩の古民家を借りられることになった。築120〜130年、床などを吉野材で張った吉野建の家。「“吉野”と言えるものを発信していかなきゃ」と思った。「八ヶ岳のソバを吉野の水で吉野の僕が打つ」。吉野は桜の名所として春の活気はすごい、新緑の夏や紅葉の秋もそれなりだが、冬はやはり厳しく開店休業の店も多い。だが大矢さんは、よほどの支障がない限り冬も店を開ける。
毎日やっていると、真冬でも吉野山にやってくる人がいることに気付いたとか。「吉野山の魅力は桜だけじゃなく春夏秋冬あるんだと目を向けてもらいたい。どこの観光地でもみんな努力している。僕ら30〜40代の者が吉野の閑散期をどうにかしていかんと。次世代の子らのための課題」と、力を込める。
ソバは自分がコレと思うもの3〜4種を挽いてもらい独自ブレンド。よく熟成させまろやかで深みのある返しに、ダシは日高昆布と鰹や鯖など4種で取った関西好みのつゆを供す。天ぷらや料理の食材は吉野をはじめとする地元産のものを使う。
「6歳を頭に娘が3人。家族の生活や今後のことを考えると正直プレッシャーや不安もあります。でも、”自分が吉野路線でいいものを作り、お客さんに喜んでもらう“というところでブレなければ大丈夫」との信念で今日も蕎麦を打つ。