野迫川村は、高野山の麓にあり、総面積の9割以上を山林や清流が占める。村民は500人足らず、全国で一、二を争う過疎化に悩む村だ。国道も信号もなくアクセスも不便、携帯電話はほとんど圏外、“陸の孤島”と呼ばれることすらある。
大学を卒業後、営業職でバリバリ働いていた中村雅昭さんに、ホテルのせ川から声がかかったのは阪神大震災のとき。当時いた大阪のホテルは、レセプション自粛で活躍の場がなくなった。「必要とされているところへ行こう」
34歳で村へ来て10年、ホテルのせ川の支配人として力投した。顧客も付き、ホテルは軌道に乗った。ところが、経営方針が変わり突然の解雇。落ち込みはひどかったが、「人生にはこんな事もある。置かれた場所で咲くしかない」と、観光物産の営業職に精を出した。そこでは、6年間で年商2億を3億までに伸ばした。
その頃、ホテルのせ川は経営破綻に陥っていた。10年前、村を通る熊野古道「小辺路」が世界遺産に登録されたが、過疎化・高齢化が進み、村はさびれる一方。だが「ホテルだけは観光拠点として灯を消すわけにはいかない」というのが村人の思いだった。「やはり、彼しかいない」と、中村さんが呼び戻される。「今更……」という気もあったが、割り切った。「僕はやっぱり、野迫川が好きなんだ」と。
ゼロからの出発だった。離れた客の呼び戻しには、ホテルとして当然のサービスの見直しはもちろん、スタッフの人間関係の構築、備品・設備の充当など、課題は山積み。その一つひとつを「元の活気あるホテルに」と、ひたすら努力を積み重ねた。
が、再着任1か月と数日後、あの悲劇が襲う。奈良県南部に甚大な被害をもたらした台風12号だ。寸断された道路やホテルの復旧は早かったものの、風評被害が大きかった。だが「ウイークポイントはストロングポイント」と持ち前のバイタリティーであれこれ試行錯誤。「特別なことはしていません」。緑の木々、せせらぎや風の音や色、鳥のさえずり、星のまたたき……。この村にはそんな自然界の音と空気を求めて人は来るのだ、と思うからその環境づくりに心を込める。
中村さんの住まいは大和高田市。朝6時に家を出て曲がりくねった林道などを片道2時間かけてホテルへ。雪の多い冬場は雪かきから始まり、宿泊客への対応、高野山への送迎、各持ち場への指示出し、館の諸メンテナンスと、キーマンとしての業務はもとより雑事もいとわない。大型車運転、ボイラー・危険物取り扱い、水道設備関係など、遠隔地ならではの必要性から取得した免許で何でもこなす。月の3分の2はホテル泊まり、「楽しいんですよ、ここは。僕は〈苦労〉と書いて〈しあわせ〉と読みます。ハハハ」と明るい。
そんななか、2013年4月、村と村民が株主となって村の会社「株式会社のせ川びれっぢ」を設立、「ホテルのせ川」の新生を図ることに。中村さんは、代表取締役兼支配人として将来を託された。
「再出発から3年。少しずつですがやっと先が見えそうな気がしてきました」と言う。「ホテルのオリジナルブランド化を図り、名物『鴨猪雉鍋』や『山いき弁当』、姉妹都市スロバキアのワイン、野迫川そうめん、あまごの甘露煮などの商品もブランド化したい」と先のビジョンも明確。
「春は桜、夏は渓流と蛍、満天の星、秋の紅葉、冬の樹氷などなど、このすばらしさは訪れた人に絶対感じていただける」。この揺らがない確信が、今日も中村さんを飛び切りの笑顔にする。