吉野郡の北西部に位置する下市町。総面積の79%が森林で、割箸や三宝などの伝統産業が盛んなこの地は、かつて吉野と大和平野を結ぶ要として栄え、人や物が行き交う市(いち)が立っていた。ここに昨年末、新たに誕生したのが、下市木工舎「市 ichi」。代表の森幸太郎さんと研修生4人が共同生活を送りながら、吉野杉を生かした鉋仕上げによる家具を広めようと、家具作りを行っている。
森さんは京都府出身。奈良の高等技術専門学校で木工を学んだ後、訪ね歩いた兵庫県三木市の徳永家具工房で鉋仕上げの手法と出合った。木の表面をこねるように擦り、傷をつけてしまう紙やすりに対し、鉋は表面を刃で切るため、艶が出て木目や細胞をくっきりと残せるのが特長。「鉋は木の良さを一番に引き出せる、日本独自の仕上げです。今まで見てきたものと違う、これをやってみたいと思ってすぐに頼み込み、何とか弟子入りしました」
工房に「吉野杉で机を作ってほしい」と注文が入ったのは、それから3年余り過ぎた頃。本来、材質の軟らかさから家具作りに不向きとされていた杉。しかし、いざ手に取ると森さんら職人はその質の良さに驚かされたという。500年にわたり植林され、代々人の思いの籠もった吉野杉は、木目が均一で美しく、まさに日本の誇る技術。「日本にしかない鉋、そして、吉野杉。日本が培ってきた技術を、家具という形で伝えたい」。彼らの思いにリンクするように、奈良県や下市町から吉野杉の活用をとの声がかかり、徳永家具工房の新しい工房建設が奈良に決まる。森さんは、身に付けた鉋の腕を生かす次のステップとして、また木工を学んだ奈良への恩返しの気持ちから、新工房の代表として下市町へやってきた。
鉋技術を伝え広めようと研修生を募ると、全国から40人もの応募があった。「やりたい人はそれだけいるってことですよね。環境さえあれば、どこでも仕事を生むことができるんです」。今回受け入れた4人の研修生のうち、2人は県内、あとの2人は東京、静岡からやってきた。年齢は皆20、30代と若手。「好きな木工を通じて、地元の奈良で働きたい」「生きているように感じられる木の魅力にはまった。素晴らしい鉋技術をもっと広め、木工業界を変えたい」と強い志を持ち、2年の研修期間で技術習得を目指している。
現在制作しているのは、背もたれと座面に吉野杉、脚に頑丈なケヤキを使用した椅子。豆鉋、反り鉋や南京鉋など、大きさや形の様々な鉋を使い分けて手作業で仕上げる。その椅子に長時間座ってもおしりが痛くなりにくいのは、杉の軟らかさと人の手が生む曲線から。機械には作り出せない人の動きが描くからこそ、人の生活によりなじむのだ。「できた時が一番きれいなんじゃなくて、使い込んでこそもっと良くなっていくものを」と、森さんは研修生に何度も繰り返し話す。
「ゆくゆくは、下市町の誇る特産品として広げたいです。研修後も仕事ができる場所を町内に作り、『市 ichi』ではまた新しい研修生が鉋技術を学ぶ場として連鎖していけば」
下市町の新しい「市」として、人が集まり、新たなモノを発信する拠点。その第一歩の「ichi」に、と願いを込めて名付けられたこの工房で、今まさに、森さんと未来の職人たちがその一歩を踏み出したばかりだ。