ほんの30年前まで、辺りの草むらに可憐な姿を見せていた日本原種のササユリ。気象変動や環境悪化の影響により今では希少となった花を、未来に残そうとしている所がある。
近年、ササユリの里として「にほんの里100選」「ユネスコ未来遺産」にも選ばれた宇陀市室生の深野地区。室生赤目青山国定公園の山並みを一望できる標高約450mの山肌に、昔ながらの棚田が広がる風光明媚な山里だ。全戸数37戸の小さな集落で、過疎高齢化が進む時世ながらも、空き家はゼロ。移住希望が相次ぎ、待機者が出るほどの人気ぶりである。
そんな深野で、新たに一輪のササユリが開花の時を迎えた。一棟貸しの宿として2014年9月に開業した「ささゆり庵」。茅葺きの古民家を母屋に、蔵と草屋根の別棟が隣接する、伊賀・東大和地域の伝統的な農家家屋様式の宿だ。
庵主の松林哲司さんは、深野から車で15分ほどの名張市に在住。かつてインドやネパールなどを放浪した際、自然が生みだす山にひ惹かれたことから、絶景の山々を眺めながら快適にくつろげる場所を作ろうと、宿の経営を目指した。通勤道で見かけていた深野は、松林さんにとってまさに理想郷。集落の中でも高地にある築約150年の古民家が目に留まり、「天空の絶景を楽しむ、大人の隠れ屋敷」をテーマに、1年以上かけて改装した。
「50年ほど前、私が子どもの頃はどこも茅葺き屋根でした」。かつては年ごとに各家を回り、皆で葺き替えをしていたが、高齢化や自然破壊による茅不足、地域コミュニティの消失などが原因で今ではほとんどが瓦屋根に代替。「鉄とコンクリートの無機質な建物が連立し、どこも同じ景色に見える現代。そんな日本に慣れた若者や都心部の人に、もう一度日本の伝統を味わってもらいたい」と、茅葺きを未来に残すべく、茅の葺き替え技術が伝承されている京都美山町から職人を呼び、古民家再生にこだわり抜いた。
深野がササユリの里として有名になったのは、日本原種のササユリが咲く田舎の原風景を保とうと、住民が「深野ササユリ保存会」を結成し、集落を挙げて活動してきた賜物だ。代表を務める北森義卿さんの思いに、松林さんは共感。消えゆく日本の伝統や風景を象徴する茅葺き屋根が、この地のササユリと重なった。そこで、宿を「ささゆり庵」と命名。北森さんも屋号を快諾し、母屋前の斜面にササユリを植えてくれた。
「ササユリの里として注目され、空き家ゼロとはいえ、70代が若手の地域。10年、20年後はどうなっているかわからない。次世代の若者が帰ってきたくなるように、日本一を目指して住みよい所にしないと」。松林さんは、大阪で経営していた貿易会社を宿の隣に移設。インターネット環境さえ整っていれば田舎でもビジネスが成り立つことを実証し、「山人(やまと)庵」として会議室の貸し出しも行っている。
そのほか、新しいサイクリングロードの企画や、美しい景観を残すための電柱の地中化案など、地域創生に精を出す。「この地で3軒は宿を開き、温泉も掘り当てたいね。文化財や遺産だけを守り継ぐのではなく、日本本来の生活や生き方も次世代に残していければ」
囲炉裏のある大広間に居ながらにして、眼前に望める大パノラマ。夏は緑の絨毯の棚田、冬は雪化粧を施した山々、夜には満点の星空が待っている。「ここは、人々が忘れかけた日本に戻れる場所。今となってはぜいたく贅沢な伝統家屋で家族や仲間と過ごし、日本っていいよね、と思う日本人や外国人がもっと増えてほしいです」