月ヶ瀬の梅の実が完熟し、あたり一面に甘い梅の香りが漂う頃、一軒の庭先で烏梅造りが始まる。梅雨の蒸すような暑さの中、髪を手拭いで覆い、手を真っ黒に染めて作業を進めるのは、月ヶ瀬生まれ月ヶ瀬育ちの中西喜久さん、邦子さん夫妻だ。
毎年、半夏生の日に氏神天神にお参りし、翌日から烏梅造りが始まる。完熟して木から自然に落ちた梅の実を拾い集め、ススをまぶして窯で一昼夜蒸し焼きにする。それを種までカラカラになるよう、1か月近く天日で乾燥させるのだ。こうして完成させたものを『烏梅』と呼び、古くから薬や伝統的な紅花染めの媒染剤として珍重されてきた。
喜久さんは小学生の頃から、邦子さんは義父である喜祥さんを嫁として手伝うことから始まった。梅スダレの一方を持って運んだり、雨が降ったらビニールシートをかぶせたり、作業を手伝いながら烏梅の話を何度も聞いた。「南北朝の頃、月ヶ瀬に逃れた園生姫が製法を伝えたと言われていて、米よりも高価なものでした。村のほとんどの家で作られ、梅の木もたくさん植えられました。月ヶ瀬梅渓が名勝とまでなったのも烏梅があったからとも。しかし、明治に入って化学染料が輸入され衰退し、戦後はうちだけとなったのです」
1995年、国選定文化保存技術『烏梅製造』の唯一の保持者として認定された喜祥氏は今年3月、92歳で永眠。梅の花が春の訪れを告げた頃だった。それに次いで今年7月15日、喜久さんが保持者に認定された。その栄誉を喜びつつ、義父の技を後世につないでいけるのか、邦子さんはプレッシャーでもあるという。
そんな二人を周囲の人がサポートしてくれた。体力のいる梅拾いも地元の有志の人たちが集めてくれ、製造に欠くことのできないススも伊賀の銭湯や地域の人が協力してくれた。一人では出来ない作業も親戚をはじめ皆が手伝ってくれた。昔ながらの製造法を守ることはたやすいことではない。便利になった今の時代、簡単に作る方法もあるかもしれない。雨が降りやすいこの時期を避けて作ることも出来るかもしれないだが、「昔からのホウゴト(決まり事)にはそうすべき意味があると思う」。伝えられたやり方を頑なに守り、「ただただ私たちに出来ることをやろうと思います」と明快だ。
奈良時代の頃から大和に春の訪れを告げる行事のお水取り。ここで捧げられる椿の花の紅色にも欠かせず、中西家の人々と周囲の人々の協力で守り継いでいる。「烏梅を必要としている方がいて、応援してくださる方がいるから、頑張れます」