ここは女人高野・室生寺の奥の院。山深い幽玄な地で、急斜な石段を約720段上った場所にある。本堂や弘法大師像を祭る御影堂が並び、見上げれば、空が一段と近くに感じられるほど。聞こえてくるのは、鳥のさえずりに、木々を揺らして通り抜ける風の音。静寂に包まれた別天地そのものだ。
この奥の院で14年近くもの間、ほぼ毎日休むことなく通い、朱印状を書き続ける達人がいる。室生寺の職員の中村一誠さんだ。穏やかな優しい笑顔が、訪れた人の心を和ませる。もちろん、週1回の休みの日を除いての話だが、盆や彼岸の時期、年末年始には常に奥の院に詰め、階段を上がってきた参拝者を温かく迎える。
「お参りに来てくださった人に、喜んで帰っていただくことが、何よりもうれしい。『上ってきてよかった』という声を聞くと、明日も頑張ろうと思う」
中村さんは顔をより一層丸くさせながら、円満な相好で話し始めた。参拝者に気持ち良く過ごしてもらい、地元に帰ると寺や奥の院、室生の里のことなど、家族や友人に話してもらえたらと願っている。それはやがて、室生寺の良さを全国へ伝えることになると、信じてやまない。
そのためにも、自分自身で出来ることを考え実行してきた。特に、朱印状を書くときには、優しい雰囲気が漂う文字になるよう、先輩を手本にしながら工夫を重ねてきた。さらに、手にした人にほっこりとしてもらえるように、心を込めて筆を握る。
また、お守りを買い求める人に、「どちらからですか?」「どなたに渡されるのですか?」など、問いかけながら会話も楽しみ、お守りを入れて渡す袋に、「合格祈願」「家内安全」「安産祈願」などの文字を、墨でしたためる。せっかく石段を上がって、お守りを求める人に、ただ袋に入れて渡すだけでは味気がないと始めたものだ。汗だくになりながら上がってきた高齢のご夫婦には、お茶を差し出し、ゆっくり過ごされるように勧めることも。
中村さんは、18歳のころ室生寺の職員になり、半世紀以上が過ぎた。当時、鞄を手にスーツ姿でバスに乗り込む同級生を目にするたび、うらやましく思ったと振り返る。しかし、「長男として百姓を続け、家を守れ」という父親の言葉に従い、室生の里にとどまった。今では、先祖代々住み続けてきたこの土地を誇らしく思うとともに、寺を通じ出会った多くの人との縁に、感謝の日々を過ごす。
毎朝、弁当を入れたリュックを背負い、竹ほうきを手に、奥の院へ向かう。その足取りは、とても高齢を感じさせないほど軽やかだ。今年2月に大雪が降った日には、約25キロの凍結材を担ぎ、除雪しながら上がったと笑いながら話す。
「桜とシャクナゲが境内を美しく彩るころにも、是非、お越しください」。語りかける中村さんの笑顔は、御影堂の弘法大師像と重なるほど清らかだ。