天川村よりさらに南、吉野の山中深くに位置する大塔町。その名は南北朝時代、この地の郷土が隠遁中だった大塔宮護良親王を助け、建武の中興を実らせたことに由来する。
新子光さんは、あたりの伝統工芸品である「大塔坪杓子」の職人。金髪で、服はニッカポッカ。ただ目元はやさしく、笑顔に格別の愛嬌がある。戦前までは、地区中の人がしていたという杓子作りだが、今も続けている家は、新子さん一軒だけ。それも数年前、祖父の薫さんが体調を崩し引退してからは、光さんが唯一の職人となった。
素材となるのは、樹齢70年ほどの栗の木。生木の間は加工しやすく、乾燥させると軽くなり、水に強く丈夫なためだ。杓子は使い込むほどに黒く変色し、やがて古い大黒柱のような、味わい深い色味になる。食洗機などで洗うことは出来ないが、大事にすれば、100年ももつ。何より、使うほどに手に馴染む杓子は、「道具を育てる楽しみ」を与えてくれる。
小さな頃は、学校から帰ると自宅近くの作業場で、薫さんと一緒にお菓子を食べるのが日課だった。そうやって杓子作りを、見るともなしに見る。「この仕事は、手取り足取り教わるものではありません。『どんな勉強をしたか』と聞かれれば、『昔から祖父の仕事を間近に見た』というくらいでしょうか」。
やがて車に興味を持つようになり、高校は自動車課に進学、寮で生活した。整備士の資格も取得し就職先も紹介してもらったが、伝統を途絶えさせてはいけないと、卒業後は大塔へもとることにした。その後は80歳近い祖父と二人暮らし。毎日家事全般をこなしながら、時間を見つけては杓子作りに取り組んだ。
光さんが自作の杓子を販売するようになったのは、実はつい最近。以前の作品は出来にばらつきがあり、売るのに抵抗があったためだ。作品が大きく変わったのは、薫さんが杓子作りを引退してから。「自分がやらなければ」という責任感と、何より、使う人の気持ちを考えるようになったのが大きな違いだそうだ。
「昔は使い勝手も何も考えず、ただ杓子の形にしていた」。杓子作りの時間が取れないと嘆いていたはずの家事が、今になって生きている。
日本を見回すと、木杓子を作る地域は多い。ただ型を使わず、大ナタを振るって、生木から一気に仕上げてしまうのは、この地区だけだ。作業は早朝から、日付が変わる頃まで続くことも。それでも、一日に出来るのは5〜10本だという。
今、伝統を守るのも、家の家計を守るのも、光さんただ一人。薫さんはその仕事を見守り、アドバイスをすることなどほとんど無い。「自分なりの方法を身に付けるのが一番ですから」。静かな山里に、光さんの、ナタを打つ音がこだまする。