大和三山の一つ、香久山。藤原宮跡の南東に位置し、持統天皇らはこの山を舞台に万葉秀歌を残した。その山の麓、多武峰や吉野連山を見渡す高台に、アトリエを構える画家がいる。島本芳伸さんである。建築に当たっては整地の段階から参加、ほとんどの工程を自身でこなした。
島本さんが絵を志したのは、小学校時代の恩師の影響だったという。まだ戦後間もない当時、先生が戦争のために絵筆を置いたことを知り、それならば自分がと考えた。美大進学を希望していたが、父親が倒れたこともあり断念。奈良県商工館工芸伝習所へ入り、美術の基礎と木工とを学んだ。
「大学に進学できなかったことは残念だったけど、あのころ学んだことはとても役に立っていますよ。額縁なんかは自分で作れるし、この家もほとんど自分で作りましたから。ただその伝習所も1年半で閉所。大人はなんて勝手なんだと思いましたね」。
その後は製函の仕事をしながら、金鐘高等学校(現東大寺学園)へ入学。筒井寛秀師、守屋弘斎師ら名僧の指導を受けながら、青春時代を過ごした。
一般に、日本の絵画は一点秀作主義。特に油絵では一つの作品に数か月かける画家も少なくない。しかし島本さんは、感情の赴くまま、多数の作品を生み出す。「大学に行けなかったことのコンプレックスかな。若いころから、美大生が100枚描くなら、自分は220枚描こうという思いがあった。描きたいものがあれば、描きたいだけ描く。僕は野人ですからね」。
今まで描いた作品は数千を数える。それでもなお、絵画への情熱は尽きることがない。ほとんど独学で身につけたというその作風は力強く、生命力に満ちている。険しい山中の滝をモチーフに選ぶことも多く、70歳を過ぎた今も、愛車に画材を積み込み、山々を巡る生活を続けているそうだ。
「以前描いた同じ場所に行っても、新しい発見はいくらでもありますよ。『お前、前にこの辺描いてたけど、俺のこと描かなかったろう。こんなにいい顔しているのに』なんて聞こえたりしてね」。
島本さんの話をうかがっていると、絵を描くために必要なものは、技術よりも、対象と向き合い、対話する力なのだと気づく。「なにも遠くへ行かなければならないわけではない。アトリエから外を見て、そのドアの外、砂利の陰影が良いと思うこともある。風景というのは、季節だけでなく、描き手の気分によってもまったく違う顔を見せてくれるんです」。
アトリエには、自筆の格言がいくつも張られている。その中に”自然と楽しく過ごすことはめんどくさいことだ“というものがあった。「穴を掘ってもキャンプを楽しんでも、最後は元の姿に戻さなければいけない。当然のことです」。確かに当然のことである。
ただ、島本さんの口を介すると、不思議なほど重みを増す。風景と対話する人は、当たり前に自然と付き合う。日本中を駆け回る「野人画家」の、風格のようなものを感じた。